実業之富山アーカイブ

実業之富山アーカイブ

⑧昭和の実業家たちの足跡

戦前に一時代を築いた実業家たちも、敗戦で大打撃を受けた。戦後の数年間は空襲による建物や生産設備の焼失、民需への転換、公職追放、労働争議などに苦しみ、事業の再建は容易でなかった。しかし、復興の兆しをとらえると大胆なビジョンを掲げて力強く前進し、地域の未来を構想した。戦前・戦後を生き抜き、日本の高度成長をもたらした実業家たちの足跡が小誌に残っている。

「賢明なりし富山県民」
(1947年1月号)

伊藤忠兵衛は伊藤忠財閥の2代目当主にして、富山紡績、呉羽紡績の設立者。県の紡績産業のみならず機械工業の発展に大きな功績があったが、敗戦を機にすべての役職を辞任し、GHQによって公職追放となった。記事は伊藤忠兵衛が来県して講演した際の要旨を掲載したもので、工場招致における県民の熱意と協力に感謝の言葉を述べている。

「企業民主化の提唱」
(1948年2月号)

富山地方鉄道社長で衆議院議員の佐伯宗義が発表した「企業民主化の提唱」について、その趣旨を聞いたもの。当時の企業が直面していた経営の民主化という課題に対して、哲学的な考察に基づいた持論を展開している。

「海上Gメンの活躍」(1948年11月号)

若狭得治が伏木海上保安署長時代に寄稿したもの。若狭は運輸官僚として将来を嘱望されていたが、結核が悪化したため郷里での静養を望み、新設された伏木海上保安署に勤務した。7年間にわたる療養生活を経て奇跡的な回復を遂げ、後に運輸事務次官、全日空社長・会長を務めることとなる。

「天高き秋」
(1952年11月号)

不二越鋼材工業社長の井村荒喜のエッセー。同社は戦後、民生品への事業転換で苦慮してきたが、精密機器の需要が回復してきたことから1952年、5億円に増資。本業への回帰と生産拡大に乗り出したこの時期、小誌にエッセーを連載していた。飾り気のない文章から、その人柄が伝わってくる。

「世界を一周して見たまま、聞いたまま」(1954年9月号)

吉田工業社長の吉田忠雄は1954年、創業20周年記念事業の一環として1月から4月にかけて100日間に及ぶ世界視察旅行を実施した。各国の工業界の実情をつぶさに視察して学んだことについて小誌に寄稿している。この視察旅行で得た知見は同年に建設された黒部の新工場に生かされ、同社の躍進につながった。

「河合社長と小松製作所」(1953年2月号)

小松製作所社長の河合良成の人となりについて、小誌創刊者の知己であった経済評論家の三鬼陽之助が論じている。河合は農林事務次官、厚生大臣などを経て実業界に転進、泥沼化していた労使紛争を解決した手腕を買われて同社社長に就任した。「財界のご意見番」と言われ、歯に衣着せぬ物言いで知られる三鬼が、河合にエールを送っている。

「富山—東京を四時間で 富東高速自動車道路」(1963年4月号)

北陸新幹線の建設を初めて公の場で提唱したのが、中越パルプ工業社長の岩川毅である。高度成長で遅れをとった「裏日本」が浮上するためには、東京や大阪など太平洋側の大都市と北陸を結ぶ幹線交通対策が不可欠という認識は、小誌に寄せたこの提言でも基調になっている。北陸新幹線構想はこの2年後に金沢市で開催された「一日内閣」で提案された。