日本生まれ、富山産の“スパゲッチ”
織物と食品の技術を核に新たな100年へ
《日本製麻》
日本人がおいしいと感じるパスタを作り続けたい―日本最古のスパゲッティブランド「ボルカノ」を製造販売する日本製麻(本社神戸市、本店砺波市、社長中本広太郎氏、従業員348名=東証二部)の網本健二会長はそう語る。

ボルカノの工場があるのは散居村が広がる砺波平野。イタリアを中心に、小麦栽培が盛んな欧米を本場とするパスタが、米どころ富山で作られているとは意外である。パスタはスパゲッティやマカロニ、ラザニアなど麺類の総称で、小麦粉と水だけで作られるシンプルな食品だから、小麦粉と水の質が味に直結する。小麦粉はほとんどが輸入されていて全国どこに工場があっても材料の厳選は可能だが、水はそうはいかない。立地条件が重要であり、飛騨を源流とする庄川と小矢部川にはさまれた富山県内一の穀倉地帯である砺波平野は、おいしい水に恵まれ、良質のパスタづくりに最適な場所だ。
小麦粉が工場へ運び込まれると、バキュームで貯蔵庫(サイロ)へ吸い上げられる。貯蔵庫からミキサーへ送り込まれた小麦粉は、水と混錬されてパスタ生地になり、ダイス(型)から押し出して麺状に成形される。2つ折りにして竿にかけられた状態で乾燥室を通り、切断、包装、検品されて出荷を待つ。貯蔵庫への小麦粉投入から出荷までほぼ全工程が自動化され、人の手が触れることはまずなく、衛生管理が徹底されている。

日本最古のスパゲッティブランド
ボルカノブランドは、イタリアからパスタの製造技術を持ち帰った髙橋胖(ゆたか)氏が、1928(昭和3)年に兵庫県尼崎市で髙橋マカロニ製造所を個人創業し、日本で初めてスパゲッティやマカロニの製造に着手したことに始まる。火山を意味する「ボルカノ(Volcano)」の名は、髙橋氏がイタリアでパスタに出会った際、ナポリで目にしたヴェスヴィオ火山にちなんで付けられた。39年に法人化された後、71年に包装材などで取引があった日本製麻のグループ会社として参画し、日本初の全自動製造ラインを導入した工場を兵庫県加古川市に建設してパスタの本格的な量産が始まった。
同時に日本製麻の食品事業部になり、やがて加古川工場の周辺環境が変化して手狭になったことから、93年、砺波市に北陸工場を新設して製造を全面移管。パスタソースやスープ、カレーなどレトルト食品の開発製造も開始した。
現在太さ1.1~2.2ミリまで31種類のパスタを月産300㌧、レトルト食品は約20アイテムを月産60㌧製造するほか、レストランチェーンなどのOEMも手掛け、イタリア製パスタの輸入販売も行っている。
日本人に馴染む食感を作る
髙橋氏がパスタの製造に着手した当時、国内でスパゲッティは「スパゲッチ」と呼ばれており、今にいたるまでボルカノ商品の包装には「スパゲッチ」の表記が使われている。こだわりは表記方法だけではない。パスタの食感と太さにも表れている。ほとんどのパスタメーカーがニーズの多い1.4~1.7㍉の細麺を主力にするのとは対照的に、同社は業務用で人気の高い1.8~2.2㍉の太麺タイプに力を入れている。その太さは讃岐うどんにも似たむっちりした歯ごたえが特徴で、一般的なパスタの固ゆで「アルデンテ」とは一味違うゆで上がりになる。
その秘密は小麦粉の配合にあるという。伝統的なパスタはデュラム小麦を粗くひいた「デュラムセモリナ」100%で作られるが、同社の太麺には、デュラムセモリナに加えて強力粉がある割合で配合されている。これによって生まれる食感が昭和の時代に愛されたナポリタンや、名古屋名物のあんかけスパゲッティといった日本生まれのメニューに最適で、うどんやそば、ラーメンに親しみ、麺文化を育んできた日本人の口にしっくりくる。
ただ太麺はゆで時間が10分以上かかり、待ち時間に追われる飲食店には使いにくい。そんな声に同社は「裏技」でこたえる。実は同社のパスタはゆで置きが可能なのだ。ゆでたパスタをラップなどで包んで冷蔵庫に入れておけば、1週間程度の保管なら電子レンジで温め直すだけでゆでたての歯ごたえを楽しめる。混雑するランチ時でも客を待たせずに提供できると、飲食店で重宝されているそうだ。
そんな独特のパスタを家庭でも味わってもらうために、同社では老舗洋食店の味を再現した「センターグリルの横濱ナポリタンソース」や、ご飯のかわりにパスタを使う「パスタパエリア」のようなレトルトソースも開発し、様々な食べ方を提案している。
地元食材を生かした食品開発
近年はイタリアやトルコからの輸入品が低価格で出回り、国産パスタを取り巻く環境は厳しくなっている。国内のパスタ供給量は年間約30万㌧と横ばい状態だ。宣伝力と販売網を持つ国内大手製粉メーカーのパスタブランドでさえ、価格競争を勝ち抜くために製造拠点を海外へ移し始めている。味と品質で勝負する同社も「合理化システムを早急に構築して工場の稼働率を上げ、コスト削減を図りたい」としているが、その上でシェア拡大を目指すには、新たな取り組みが必要だ。
「当社のパスタの売り上げの7割は業務用が占め、飲食店やレストランのシェフには認知されてはいるが、製造拠点の地元富山をはじめ一般消費者にボルカノブランドが浸透しているかといえば、正直物足りない。知名度を高め、レトルト食品も含めて売り場シェアを広げていくこと」(網本会長)を課題に上げる。
そのためにスーパーや輸入食材店、百貨店への販促強化はもちろん、昨年からネット通販を開始したほか、商工会議所やタクシー業界の関係者を工場に案内したり、小学生の工場見学を積極的に受け入れて地元とのつながりを深めている。また神戸本社では年2回の即売会を行って直接消費者の声を聞く機会を設けている。

レトルト食品でも砺波産の玉ねぎの入った「たまねぎカレー」や兵庫県産牛を煮込んだ「但馬ビーフカレー」など地元食材を使用した商品開発を通して、一般向け需要の掘り起こしに力を入れる。
将来計画には、北陸工場に隣接する遊休地8300平方㍍に、地元食材を使った食品の製造拠点を作る構想もある。「北陸にはブランド力の高い食材が多い。生産者を含め、地元食材の活用に前向きな人たちとともに、当社の技術を生かしたパスタやレトルト食品の枠を超えた新しい製品づくりの拠点にしたい」(網本会長)と期待を込める。
戦争、経営難乗り越えて100年
パスタメーカーとなって約半世紀がたつ同社だが、社歴はさらに半世紀をさかのぼり、今年100周年を迎える。1918(大正7)年に綿紡績・織物を行う中越製布として砺波市で創業。第二次世界大戦中の43年には社名を中越航空工業に変更し、繊維工業設備すべてを供出した。航空発動機工場となって45年5月に石川島航空工業に合併され、終戦後に解散。47年2月に中越製布の元役員や株主、縁故者らが中越紡織を設立、石川島産業から工場を買い戻して、綿や麻織物の製造を再開した。
やがて戦後の食糧増産の動きに合わせて、農産物の包装材として需要が拡大していたジュート(黄麻)紡績の専業メーカーとなり、59年には社名を日本製麻に改める。国内唯一の麻袋一貫生産ラインを整備し、60年代には国内における穀物用麻袋のトップメーカーになった。その後は人件費の高騰にともない、製造拠点をジュートの栽培地であるタイに順次移管。
70年代には食糧袋をはじめとする各種資材は紙やプラスチック製品に置き換わるようになり、ジュート製品の需要が縮小するなか、71年から開始したパスタ製造を足掛かりに、80年代からは鮎養殖やゴルフ練習場の経営など事業の多角化を図る。86年にはボルカノを冠したパスタハウスを開店して外食産業に乗り出し、最盛期は直営とフランチャイズ含め全国に35店舗を展開した。
さらに90年には砺波工場の女子寮を改築してホテル「ニチマ倶楽部」を開業。タイから仕入れた高級家具や調度品で飾られた店内装飾が人気を呼び、結婚式や各種式典の会場としてにぎわった。一方でジュート製品の製造から撤退して輸入販売専業に切り替え、タイに設立した合弁会社で91年からジュート織物の技術を生かして化学繊維による自動車用フロアマットの生産を開始した。


だがバブル経済崩壊後の景気低迷も相まって、やがて新規事業の多くは整理を余儀なくされる。ゴルフ練習場やホテル用地を売却、パスタハウスは直営を廃止するなど、経営規模の縮小と経営再建を最優先にスリム化し、織物と食品を核とする事業の再構築を図ってきた。
世界唯一のマット一貫生産
現在の事業の柱はパスタやレトルトの食品、フロアマット、産業資材の3部門で、売り上げ規模は40億円。フロアマット事業は、糸からカーペットを織り上げて裏地を張り、仕上げまで世界で唯一の一貫生産体制をもち、なかでも図柄に沿ってフックガンという道具で糸を打ち付けていく「フックド・ラグ」の製造技術は、とくにデザインが重視される高級車向けの高付加価値製品だ。その品質は国内外の自動車メーカーから高い評価を得ている。変化の激しい自動車業界にあって安定した受注を獲得するため、目指しているのは消臭機能や軽量化、音の吸収など機能性でも差別化した商品開発である。
産業資材は、タイやインドから輸入するジュートを原料にした縄や布、袋など林業や園芸用の資材。安価なプラスチック製品が普及するなか、使用後は土にかえる環境負荷のない自然素材は近年見直されつつある。昨秋からカラフルな図柄を描いたジュート製コーヒー袋の輸入を開始し、一般向けにもネットで販売している。野菜などの保存袋にも使え、インテリアとして飾ることもできると好評で、雑貨店など実店舗への卸販売も検討中だ。
戦争や好不況の大波をくぐり抜けながら、100年の歴史を刻んできた同社。「3部門の幹に新しい枝を伸ばしていきたい。そのために他社とのアライアンスも視野に入れた事業開拓を進めていく。時には撤退する勇気を持ちながら、常にパイオニア精神で挑戦する企業でありたい」(網本会長)と、次の100年に向けて一歩を踏み出した。(「実業之富山」2018年4月号より 記述内容は取材時点のものです)