1947年1月号広告・敷島紡績笹津工場
富山県では昭和初期に関西系資本による近代的紡績工場の立地が相次ぎ、全国有数の綿紡県となった。笹津工場もそのひとつで、1932年に天満織物笹津工場として開設され、1944年、会社合併により敷島紡績笹津工場となった。戦時中、軍需転換を余儀なくされたものの、戦後は生産を再開。「実業之富山」新年号の広告では、糸をもつ女性の優美な手をモチーフとして用い、「産業復興はあなたの手で」と訴えている。
実業之富山アーカイブ
広告は「時代を映す鏡」といわれる。その時代の空気や消費者が求めているものを読み取って、メッセージを送るものだからである。社会や経済の大転換期に創刊された「実業之富山」の広告にも当時の世相が色濃く反映されている。
富山県では昭和初期に関西系資本による近代的紡績工場の立地が相次ぎ、全国有数の綿紡県となった。笹津工場もそのひとつで、1932年に天満織物笹津工場として開設され、1944年、会社合併により敷島紡績笹津工場となった。戦時中、軍需転換を余儀なくされたものの、戦後は生産を再開。「実業之富山」新年号の広告では、糸をもつ女性の優美な手をモチーフとして用い、「産業復興はあなたの手で」と訴えている。
同じく1947年新年号の広告。同工場は戦時中の企業合併により寿繊維工業高岡工場から鐘紡高岡工場となり、富山県の繊維産業の一翼を担ってきた。生産再興には勤勉な女性工員の確保が不可欠であり、「今工場は溌剌とした貴女達を待ってゐます」と呼びかけている。
戦後、民需向けの医薬品事業に乗り出したころの富山化学工業の広告。新発売の外傷薬「パンキシン」、解熱鎮痛剤「アンチタミン」、ビタミンB1剤「ビバミン」などの大衆薬を「つくし印」ブランドで販売していた。
米軍による本土空襲が激化した戦争末期、人だけでなく、工場の疎開も行われた。関東通信金属は1945年3月の東京大空襲で工場が焼失し、移転先として高岡市吉久を選んだ。この広告が掲載された当時は旧社名のままであったが、その後、三越金属工業(現・サンエツ金属)に改称し、名実ともに北陸の地に根を下ろすことになった。
新湊地区には日本海重工業のほか、中小の造船所が数社あった。越ノ潟造船所もそのひとつとみられる。戦後2、3年は極端なもの不足の時代が続き、特に塩不足が深刻だった。この広告では同社の関連会社が製造販売する塩や代用醤油などを取扱品目にかかげている。
庶民のレジャーといえば、海水浴か山登り。富山県は両方が楽しめる恵まれた県である。戦時中は肉体の鍛練のためであったものが、戦後は再び行楽として楽しむものになった。2つの広告は、人々の余暇への関心が高まりつつあることを示している。